続木斉物語

続木斉

続木斉(ひとし)の生まれた家は、愛媛県の宇摩郡野田村(現四国中央市)で数代にわたり名字帯刀を許された庄屋の名家であった。

1883年(明治16年)1月16日、斉は続木家の三男として産声を上げ、何不自由ない幼少期を過ごした。父・寅馬(とらま)は色白の偉丈夫で、先見の明があり、時代の流れにも敏感な人物であった。彼は息子の斉にこれからの時代は英語が必要であると説き、グラッドストンやプルタークを読み聞かせたという。生涯にわたって学問に励む斉の精神の下地となる部分は、この父からの影響により育まれたと想像できる。

しかし、明治維新とともに訪れた新しい時代の波は、小さな村にまで及び、変革に対応しきれなかった続木家の没落は早かった。更に不幸なことに、寅馬が43歳の若さにしてコレラを発症し、帰らぬ人となってしまう。主人を失った続木家の生活は一変し、困窮を深めていく。

7人兄弟のうち何人かにとっては、この貧しさは人生の目的を失うに等しかった。だが、斉の兄である二男の介寿(かいじゅ)(号を石鴻元(せつこうげん)または文湖山人(ぶんこさんじん))は、息苦しい我が家の貧困を自ら脱すべく、13歳にして故郷を離れ大都会に職を求めた。八百屋、菓子屋、煙草屋と渡り歩くが、商人の仕事が肌に合わず、諏訪山の絵師、春香の家に庭掃除として住み込みで働き始める。そこで絵の面白みを覚えた介寿は、すぐさま芸術的才能を開花させ、その後は日本画家として一家をなした。

斉はこの兄の影響を受けた節がある。幼いながらも学問と芸術に傾倒し、貧しさの中から生きる喜びを見出していた。敬愛する兄にならって家を出、岡山の味噌醤油醸造家の小僧となり住み込みで働き始めたのも、介寿と同様に13歳のときだった。当時の様子を伝える資料はほとんど残されていないが、7年もの歳月をこの岡山で過ごし、仕事の合間を縫っては勉強に励む真面目な少年であったことが語り継がれている。特に英語と文学を好み、語学に関してはバーンズやワーズワースの詩集を原文で読めるほどの実力の持ち主であった。

西洋文化に触れ、海外に対する憧れを抱いていた斉に、人生の転機となるほどの感動と影響を与えたのが、内村鑑三の英文著作『余は如何にして基督信徒となりし乎』(『How I Became A Christian』)である。内村の思想に感化された斉は、彼のもとで直接教えを請う願いを日に日に膨らませ、ついに20歳のときに上京する意志を固めた。しかし奉公生活の給金の多くを書籍の購入に費やしたため、ひとまず神戸に出向き、旅費を稼ぐための働き口を探した。

神戸に入ると、つてを頼って鈴木商店に入店する。斉がここを奉公先に選んだのは、貿易を兼ねた総合商社として名を成していた鈴木商店であれば、得意の英語が活かせるに違いないと考えたからであった。後に関西有数の財閥として更に知名度を上げる鈴木商店であったが、斉にとっては上京するための資金稼ぎだったため、未練もなく退社。神戸を後にするのであった。

1902年(明治35年)7月、内村鑑三第3回夏期講習会に集った人々

1902年(明治35年)7月、内村鑑三第3回夏期講習会に集った人々。2列目右から7人目が内村鑑三。
前列右から4人目が続木斉、3列目右端が有島武郎、5列目左から4人目が志賀直哉、最後列右から4人目が小山内薫等。

当時の交通手段を考えれば、汽車で上京したと考えるのが妥当であろう。だが一方で「神戸から徒歩で逢坂山を越え、芋を噛み水を飲んで東海道を辿り、箱根の険道を這い上がり何とか辿りついた」との記録も残っており、彼の旅路は相当な困難を極めるものだったようである。

1902年(明治35年)の第3回夏季講習会にて斉は、晴れて内村門下生の一人となった。内村はキリスト教精神にのっとり戦争を真正面から否定したばかりでなく、社会の不正、人種差別にも異を唱えていた。信仰と覚悟に満ちた内村の思想に感銘を受けた門下生には、志賀直哉や有島武郎など当時の知識人たちも含まれる。内村のもとで学んだ教えは、斉自身はもちろん、現在に至る進々堂の精神基盤の形成に大きな影響を与えた。

中村屋での奉公生活

若かりし頃の続木斉

若かりし頃の斉。働きながら学問と芸術に傾倒する。

念願であった内村門下生としての生活をスタートさせたものの、職を得ないことには暮らしがままならず、勉学に励むこともできない。そこで斉は生活の糧を得るためにアルバイトを始めた。ところが牛乳配達や、新聞配達など様々な職に就いてみるものの、どれも長続きしなかった。

転々としたアルバイトの中でも一番早く辞めたのが人力車夫の仕事だったという。小柄な斉が、昇り降りの激しい東京でかじ棒を取るのは無理があり、坂道にかかるたびに乗客に降りてくれるよう頼んだ。また客に言いがかりをつけられ、乗り逃げされた日もあった。後年斉は、四男の満那(まな)にこの失敗談を面白おかしく語って聞かせたという。

なかなか働き口の定まらない斉だったが、ようやく腰を落ち着ける先が決まった。同じ内村門下生の相馬愛蔵夫妻が経営する、パン屋・新宿中村屋だ。

この店の主人である相馬愛蔵、黒光(こつこう)(良)夫妻が、東京帝国大学前のパン屋を手に入れ経営を始めたのは1901年(明治34年)の暮れのことだった。愛蔵は東京専門学校(現・早稲田大学)出身であり、妻の黒光も、フェリス和英女学校を経て明治女学校に学んだインテリである。二人が経験のない商売の道に入ったのは、人に使われることを好まず、独立自尊の精神を守りたい考えからであった。熱心なクリスチャンだった二人は、内村鑑三の教えに従い、一切かけ引きなしの商法をモットーに店を経営した。周囲の玄人商人たちは、「あの書生パン屋がいつまで続くだろうか」と冷笑したが、世間の嘲笑をはねのけ中村屋は着実に業績を上げた。

上京後の下宿先にて。斉の行動の根幹には、常に学問への情熱があった。

上京後の下宿先にて。斉の行動の根幹には、常に学問への情熱があった。

斉はこの創業間もないパン屋に住み込みで働くようになり、彼らの正直商法を肌で感じ、ともに実行していった。新宿中村屋での経験が、後の進々堂の起業に生かされたことは間違いないだろう。

また後の斉の人生に大きく影響を与える鹿田久次郎(ひさじろう)と出会ったのも、この新宿中村屋であった。醸造家の息子として恵まれた環境に育った久次郎は、京都を取り巻く保守的な仏教思想に物足りなさを感じ、若くしてキリスト教の洗礼を受け、内村鑑三の門弟となって布教活動に尽力した。彼もまた、職を求めて斉と同時期に中村屋に入店している。家を飛び出し内村に師事した境遇や、詩作や文学を好むという共通点で、二人はすぐさま意気投合した。斉は慎重で神経質なところがあり、反対に久次郎は活発で明るかったが、こういった正反対なところも、かえってお互いを惹きつけていたようである。

中村屋でのアルバイトを機に生活の安定を図った斉は、関心のあった語学を学ぶため、外国語学校への入学を目指した。しかし中村屋の雑居生活では勉強も捗らない。そこで久次郎に相談を持ちかけたところ、彼もまた同じ悩みを抱えていることが判明し、二人は通勤圏内で借家を探し、静かな共同生活を開始した。落ち着いた時間を得た斉は、無事外国語学校に入学を果たし、それまで独習で進めてきた英語を本格的に学び始めた。

内村の門下生の中でも、学校に通う傍ら時間を縫って中村屋で働く斉はひときわ異彩を放つ存在であったようである。後に内村は斉を、「余が君を教えしよりも、君が余に教えしこと多し。余は君の学問上の先生ならん。されども君は余の実行上の先生なり。君はパンを売りミルクを売りしも、君の面に常に歓喜満ちたり。心地よかりしは毎朝重荷を担い来りし君の顔を見ることなりし。主イエスを信じて、如何なる卑しき労働に従事するものなりとも、真心のゼントルマンたることを得るなり。君、主に謝せよ。君の歓喜はこれ彼が君に与え給いしものなればなり」と評している。

ハナとの出会い

勉強にアルバイトにと、久次郎との生活を楽しんでいた斉であったが、学生生活の中で懇意となった女性との結婚を機に、この共同生活は終わりを迎えた。

結婚相手の詳細は不明な点が多いが、軍地ウラという名前は分かっている。若い夫婦は常盤、増穂と名づけられた二人の子供を授かった。

ところが新婚生活はわずか2年で破局を迎えてしまう。斉の生活力の乏しさに呆れた妻が、夫を見限って家を出た。幼子二人は斉のもとに残され、男手一つで子供を育てなければならない事態に、彼はただ茫然とするばかりであった。

ここに助け船を出したのが久次郎だった。彼は斉が結婚して出ていった後、同志社女学校に通う妹ハナを東京に呼びよせ、明治女学校に転校させて身の回りの世話を頼んでいた。その兄妹生活に斉親子を迎え、再び同居を始めたのであった。

とはいえ斉に子育ての技量が備わっているはずもなく、自然とその場に居合わせたハナが二児の世話を担当することになった。これを機にゆっくりと時間をかけて親密な間柄となった二人は、正式に結婚する運びとなった。しかし結婚後間もなくして、手塩にかけて育てた子供たちが当時の流行病で急死する不運に見舞われる。悲しみに暮れる二人であったが、翌年には一児を授かり、猟夫(さつお)と命名した。三人は東京の郊外に家庭を設け、ささやかな生活を送ろうと努力した。

ところが少年時代の文学や芸術への傾倒から見られるように、斉は生粋の芸術家肌であり、当時一銭にもならない詩作に没頭していた。

結婚以前のエピソードであるが、同じく詩作に没頭していた久次郎とともに自作の詩を島崎藤村に送り、批評を乞うたこともあったという。しかし一向に返事がこない。待つのに痺れを切らした久次郎は、斉を無理矢理連れて藤村宅まで押しかけた。斉は、藤村が我々のような青二才と会ってくれるはずがないと尻込みしたが、久次郎は強引にねばって藤村の書斎に上がり込み、得意の文学論をとうとうと語り始めた。藤村は不機嫌な顔で久次郎の饒舌をじっと聞いていたが、区切りがつくと「君は詩を止めて講釈師になりたまえ。続木くん、君も詩で飯を喰うことはあきらめた方がよかろう」と言い残してさっさと姿を消してしまったという。

藤村の言う通り、斉の文筆だけで生計を立てるのは容易でなかった。妻と子供を抱える身ではなおさらである。そこで金銭的に恵まれない新婚生活に区切りをつけるため、夫妻はハナの生まれ故郷である京都に職を求めた。

土地に明るいハナの助けにより斉は大学の編集室に働き口を見つけたものの、職場の環境に適応できず、やむなく辞職。せっかく帰洛したものの、生活は再び苦しさを極めた。

そこへ舞い込んできたのが、久次郎が左京区吉田で開業したパン屋を譲り受ける話である。

日露戦争以降、洋風化ムードが漂っていた日本では、帰国を断念したロシア人捕虜が黒パンを焼き始め、ブームを起こしていた。栄養面から見ても当時蔓延していた脚気予防には、精白米と比べビタミンB1をより多く含む小麦が効果的とされた。久次郎はそこに目をつけパン屋を始めたわけだが、事情により暖簾を下ろさなくてはならなかった。そこで白羽の矢が立ったのが、親族にあたる斉夫妻であった。

1913年(大正2年)、続木夫妻は久次郎の店を譲り受け、屋号を「進々堂」と命名した。これは「すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」(新約聖書「ピリピ人への手紙」第3章第13~14節)からヒントを得て名付けられたものである。

進々堂の店構えは、店頭も工場の一部であり、ショーケースも設置されていなかった。パンの配達は全て荷車で行い、当時は店頭売りもしなかった。進々堂の隣組だった理髪店の店主は、店先に立つ斉の印象を「商売人らしからぬ人で、小僧に対する言葉なども学者言葉で『そもそも商売たるや......』といった調子だった」と語っている。彼が店番をしながら洋書を読みふける光景を目にした者もおり、斉の関心は商売よりももっぱら勉学に傾いていたようだ。

またこの頃起こった小さな事件が、鹿田久次郎夫人が満那宛てに送った手紙の中で綴られている。ある日、初恋の人によく似た女性を目にした斉が、店番を放り出し、裸足で後を追いかけていった。

「それが果たしてその人であったのか、別の女性であったのかは覚えておりません。後でそれを耳にしたお母さま(ハナ)は家を出て須磨のお寺に隠れておしまいになり、斉さんが迎えに行っても帰らないので、とうとううち(久次郎)が行って連れ戻したことがあったそうです」

少し意外な斉の人間らしい一面と、ハナの一途な性格が伺えるエピソードである。

苦難から一転、進々堂の大躍進

地道な経営を続けていた進々堂だったが、開業早々困難を迎えなければならなかった。1914年(大正3年)の暮れ、工場から火の手が上がり店舗もろとも全焼したのである。薪窯や石炭窯でパンを焼いていた当時のパン屋の事情からすると、火事は決して珍しくなく、パン屋の主人は夜中も安眠できないと言われていた。

せっかく譲り受けたパン屋が全焼し、途方に暮れる斉だったが、用心深いハナは万が一のためにと密かな貯えをしていた。そんなことを露とも知らずにいた斉は、何事も怠らず用意周到な妻に深く感銘を受けたという。少しの隙が大きな災いに繋がることを身をもって知った斉は、これをきっかけに防災管理には神経質すぎるほど注意を払ったとされる。

若き二人の経営者は貯金を迷わず進々堂の再建に費やし、1914年(大正3年)に堀川竹屋町に新店を構えた。建設をこの場所に決めた理由は定かではないが、偶然にも進々堂にとって飛躍を遂げる転機となる。

当時の日本は第一次世界大戦による好景気に酔いしれ、殊に京都は交通の面でも東京―下関間、米原―直江津間を結ぶ特急列車が開通し、活況を呈していた。1915年(大正4年)11月10日、京都の旧皇居紫宸殿で大正天皇の即位式が挙行され、奉祝に押し寄せた人々が京都を埋め尽くした。当時の様子を評論家である松田道雄は自著『京の町かどから』で、次のように記述している。

「夜は中学生の提灯行列が通り、電灯をつけた花電車が通った。だが市民たちの奉祝はもっと賑やかであった。各町内を単位とした奉祝の集団が、30~40人それぞれ趣向をこらして仮装し『えらいやっちゃばんざいばんざい踊らにゃ損じゃ』というひどく単純な歌詞を、阿波踊りの伴奏でおどってあるいた」

賑わう祝賀会場の近隣に位置していた進々堂にも見物客が押し寄せ、一昼夜パンを焼き続けても全く供給が追いつかないほどの注文が殺到した。売り手としては嬉しい悲鳴を上げ有頂天になりたくなるが、夫妻は堅実に手頃な価格の美味しいパンを約束の時間に必ず納品し、商売の基本を怠らなかった。売れるからといって値段を上げ、品質を落とすような客の足下を見る商売は、斉の信念に反していた。

大杉栄との交流

大杉栄からのハガキ

大杉栄からのハガキ。甘粕事件にて虐殺される2年前に送られている。

この頃、東京は関東大震災の発生により、死亡者、行方不明者合わせて10万人以上にのぼる大災害に見舞われていた。この混乱の最中、文筆家で無政府主義者の大杉栄が憲兵隊に虐殺されており、斉は京都に逃れてきた大杉の娘を保護している。

大杉と斉が出会ったのは、東京の外国語学校の学生時代である。斉が所属していたのは英語科で、同じ外国語学校の仏語科に入学したのが大杉だった。本郷教会で海老名弾正から受洗した大杉もクリスチャンであり、非戦論者という思想的一致により斉と意気投合する。しかし大杉が斉に惹かれた最大の理由は、確固たる信念を決して曲げない、信仰心の篤さであった。一方の斉も、大杉の仁義を求めて研究する姿勢と、天才的な外国語知識を高く評価していた。

交友関係は卒業後も変わらず続き、斉が住居を京都に移してからも、大杉は関西に出向くたびに進々堂に寄って話し込んだが、その際には必ず特高警察の尾行が付いていた。大杉と斉の関係への疑いは、後のフランス留学にも影響したようで、申請した旅券がなかなか下りなかった。

関東大震災の後、大杉の娘が進々堂に連れて来られたのも、彼が生前最も信頼できる人間として斉の名前を挙げていたからであり、斉も友人としてこれを快く迎え入れた。だが当時「国賊」と呼ばれた人の娘を匿うのは、人道的とはいえよほどの信念と勇気がなければできない。ましてや斉は社会運動家でもなく、パン屋を営む一般市民に過ぎない。それにもかかわらず、自身の信仰に従って行動する不動の態度には、尾行していた特高の係官も敬服したとされている。

パンの本場フランスに留学

パリに向かう途中、エジプトに立ち寄り観光を楽しんだ。右から3人目が斉。

パリに向かう途中、エジプトに立ち寄り観光を楽しんだ。右から3人目が斉。

進々堂が軌道に乗り始め、安定した収入を得られるようになると、斉はかねがね関心を持っていたフランス文学、パンの研究を目的とした渡仏留学を決意した。これに先立ち京都大学の太宰旋門教授の下でフランス語を習得。彼の紹介によりパリの住まいも決定し、1924年(大正13年)4月15日に出国した。およそ2ヶ月の船旅を経て、パリに降り立った斉はソルボンヌ大学に通い勉学に励んだ。

斉の留学中の様子は、彼が日本の家族宛てに送った多くの手紙やハガキから窺い知ることができる。妻・ハナとの手紙のやりとりだけで50 通以上にのぼり、航海中に口にした料理の話、購入した土産物や洋書を送る旨などが記されている。斉の留学にかかる費用は全てハナが送金していたようで、ところどころ旅費を心配する話も見受けられる。

学校に通う傍らで、現地の堅焼きパンを食した斉は、そのことを詳しくハナに報告している。

フランスパンの皮への情熱を綴った文章。

フランスパンの皮への情熱を綴った文章。

「パリのパンは実においしい。パリっと云ふ(つまむと)パンだがそのパリつくかげんは全くパリー風できもちがいい」と、京都のパンとは異なる味、食感は斉にたいへんな感動を与えた。これを機に、斉は現地のパン屋を視察し、技術書を片端から買い漁るなどパンの研究に打ち込んだが、思うような成果が上がらなかったようである。斉はハナに、フランスパンのパン種の製法についての情報がなかなか得られないもどかしさについて幾度となく手紙を書き送っている。

また斉は、現地で使用されていた製パン機器にも着目した。特にミキサーに関しては、短時間で多量の粉を練り上げられ、素人でも容易く操作可能な代物だった。この導入は職人の負担軽減に繋がり、後の進々堂には不可欠と思われた。斉は値段や性能を細かくハナに書き送り、購入を検討させた上で、最終的にはアメリカ経由でドイツ式のミキサー、抽出窯を日本に送り込んでいる。また斉亡き後にハナが購入したベルナー・フライデレル式のオーブンについても、同時期に言及がなされており、日本でどのように設置すべきか研究していたと思われる。

学問とパンの研究に打ち込みながら、斉は日本の家族を片時も忘れることなく気にかけていた。手紙では妻の健康を気遣い、滞在先で無事過ごしていると幾度となく伝えている。中には次のように、留学先から育ち盛りの子供たちを諭す言葉が書き送られた日もあった。

「猟夫、皐月(さつき)、巧(たくみ)、雛子(ひなこ)などへ
今お母様は非常な覚悟をもって留守の責任を全うしておられる。御身達沢山な兄弟を保護し教養していくことの他に、複雑で困難な事業を持続していかなければならない。ということは通常一様の婦人には到底なし得ることではない。お父さんがこうして数千里の海外に学問の研究に出かけることができるのも、皆お母様の強い愛と深い決心の賜物だ。御身達は年若く、かつ生活の困難というものを経験しないから、お父さんやお母様の心持はよく分からないだろうが、御身達が今日安全にこの日を送り、学校に通うことのできるのは両親の長い間の艱難苦闘の賜物であることを、よくよく考えてみなければならない。(......)
一日でも家業を怠れば、明日から衣食の道を失うことになって、御身達を飢えに苦しめねばならなくなる。これはまったく本当のことだ。それゆえお母様は昼も夜も御身達の幸福のために、努力してくださる。こんないいお母様は世界のどこに求められるか。どこに行ってもこのようなお母様はござらぬ。そうしてみればお前たちも学業に励み、お母様の言われることを能く守り、兄弟互いにいつくしみ、お母様を助けて、決して心配をかけるようなことがあってはなりませぬ。口に孝を語っても行に実を現わさなければ何の役にもたたず、兄弟力を合わせて、お母様を大事にしてあげなさい。これがお父さんの御身達への願いだ。(......)」

文面からは父親として、また愛妻家としての斉の顔が窺える。また男尊女卑の風土が根付いていた日本において、夫が妻を一人間として尊敬し、対等な存在として認めていることが分かる。

留学先からハナに宛てた手紙。時には見つけた花を同封する等、斉のロマンチストらしい一面も見られる。

留学先からハナに宛てた手紙。時には見つけた花を同封する等、斉のロマンチストらしい一面も見られる。

時に斉はパリを飛び出し、ヨーロッパ中を旅して廻った。イギリス、オランダ、ドイツ、チェコスロバキア、オーストリア、スイス、イタリア、など外遊し、旅先では常に家族を想い、ハナには時計やアクセサリーを、子供らには人形やおもちゃなど土産物を購入していた。こうしたやりとりを続け、学問に旅行にパン研究に、パリの地で斉は充実した時間を過ごした。

1926年(大正15年)12月22日、2年余りに及ぶ遊学を終え、斉は横浜の港に降り立った。子供たちはハナの見立てた洋服を身につけ父を迎えた。斉は家族との再会を喜び、留守中の店を守り抜いた妻を労った。

本場の味を京都の人々へ

和紙に墨で書かれた斉直筆のパンのメモ。製法の詳細は不明であるが、帰国後、フランスパンに留まらず、ロシアパン、イギリスパンなども考案されていたようである。

和紙に墨で書かれた斉直筆のパンのメモ。製法の詳細は不明であるが、帰国後、フランスパンに留まらず、ロシアパン、イギリスパンなども考案されていたようである。

帰国後の斉は、フランスで食べたパンを再現すべく、パン種の研究に没頭した。当時の様子を、職長であった山田儀男が記憶している。

「自分は大正14年に進々堂に入店し、その直後旦那さんがフランスから帰朝されました。当時は店と工場で40人ぐらいの規模だったと思います。旦那さんは実技ができませんでしたが、フランス語の原書を翻訳してよくフランスパンを試験焼きしていました。そのためにできそこないのパンが山をなしましたが、旦那さんは納得のいくところまで実験を続けられました。時にはパンを地面に叩きつけるようなこともありましたが、根はたいへん親切で思いやりもあったので心服することができました」

しかしこうした斉の苦労が、すぐに結実したわけではなかった。パンの耳の部分を残し、柔らかい中央部分だけを食べるのも珍しくなかった時代に、歯ごたえのある堅焼きパンの美味しさは理解しづらかった。時には斉自ら店に立ち、客一人一人に美味しいパンとは何かと説明する日もあったという。もちろんそれだけでは、大多数の人々の理解を得るのは難しい。

商売と関係のない詩も多数掲載していたことから、決して宣伝のみを意図していたのではないと思われる。斉の詩は純粋で真率な表現に満ちており、そこからは彼の不器用さも垣間見えてくる。

商売と関係のない詩も多数掲載していたことから、決して宣伝のみを意図していたのではないと思われる。斉の詩は純粋で真率な表現に満ちており、そこからは彼の不器用さも垣間見えてくる。

そこで斉が思いついたのが新聞広告であった。斉は自身の広告に対する考えをこう記している。「広告は真実の福音でなければならない。而してあらゆる方面におけるあらゆる真実の福音宣伝でなければならない。虚偽の咆哮、誘惑の手段であってはならない。時に経営者の生活報告、思想、信仰、いつわらざる感話、一夕の瞑想録をもって紙面の一隅に天来の涼気を送るべきである」

広告は真実の福音、この考えに基づき、斉は自作の詩や短評を掲載した。

斬新な宣伝広告には、結果として予想以上の反響があった。普段パンの広告など見向きもしない新聞購読者が、進々堂に関心を持ち始めたのである。これによって進々堂の存在を京都市民に周知させ、好奇心から来店した客には進々堂の味を知らしめ、多くのファンを増やしていった。フランス風パンの研究に励む傍ら、斉は理想のパン屋を実現させるために、竹屋町直売店を工場に併設した。当時の店内の様子を、四男の満那が社内報に書き記している。

「店の分厚いメン取りガラスのドアを押しひろげて店内に入ると、四すみの木の柱にたんねんな彫刻をほどこした大型のショーケースがL 字型にならび、その中には手作りの芸術品のようなパンがほどよくならべてあった。裏手の工場の石窯で焼き上がったイギリスパンやフランスパンはパチパチと表皮をはじかせながら店に運びこまれた。正面の柱のセザンヌの額の下に、ウェストミンスターの置時計があって十五分おきにかなでるのびやかなメロディーが店内にひびいた。ショーケースの右側には京都ではデパート以外初めてというウェスティングハウスの電気冷蔵庫と、N・C・Rのレジスターが置いてあった」

1928年(昭和3年)頃の竹屋町直売店。

1928年(昭和3年)頃の竹屋町直売店。

この店は開店以降、パンやバター、チーズ、ジャム、サーモンその他の缶詰類で飾られ、花瓶には絶えず季節の花が盛られていたという。まさにフランスパンを販売するにふさわしい店構えとなった竹屋町直売店は、その後に開店する北白川店とともに、進々堂のシンボルとなった。

とはいえ、相変わらず経営のほとんどはハナが切り盛りしていたようで、斉はパンの研究に集中し、自分の理想とする店の構想を練ることに心血を注いだ。進々堂の店員が斉について「おやじさんは変人や」とこぼすほどの熱心さであった。彼が長年通った床屋の主人は「たいへん口数の少ない人で、他の客と言葉を交わすようなことはほとんどなかった。しかし私に対してはいつも機嫌よく話しかけられた。私以外には決して頭をいじらせなかったところからみると、神経質なところがあったのだろう」と話している。

周囲の誰よりも早く洋服を着こなし、留学後はエジプトから持ち帰った真っ赤なトルコ帽をかぶり、ステッキを持って町を歩いた。その姿で電車に乗り人々に珍しがられて注目されたが、当人は平然としていたという。一足先に欧風の文化に触れた彼の陽気な一面は、当時の日本人の目には、さぞかし不思議に映ったであろう。これに研究熱心な学者肌を持ち合わせていたのが、「変人」と呼ばれる所以であったのかもしれない。

真実の値上げ広告

斉がパリ遊学から帰国した1926年(大正15年)の末から、1930年(昭和5年)までの日本は、不況から抜け出せない時期を迎えていた。パン屋の儲けはメリケン粉の空袋代だけ、と嘆かれた時代にもかかわらず、進々堂から客足が遠のかなかったのは、フランスで見聞を深めた斉の斬新なアイディアに加えて、ハナのきめ細かい経営管理があったからである。また、ドイツ式のミキサー導入により、生産の効率を上げたため、不況の最中も進々堂の売上は着実に伸びていった。

しかし、株価大暴落による経済恐慌時代の影響はパン業界全体に降りかかっていた。苦境を乗り切るため、政府は企業同士に協定を結ばせて、原料価を自由に動かせるようにするカルテルを認めた。これによってパンの原料価格が相次いで高騰したため、パン屋は商品を値上げする必要にかられることとなった。

この政策に対して京都のパン業界で、各社の歩調を揃えるための組織を結成する話が上がった。当時の京都パン協同組合の瀧野貞次は、運動のとりまとめ役を任され、進々堂にも出向き斉と初対面を果たしている。

「進々堂で発起人会をやろうということになったが、定刻になっても私以外の世話人が一人も顔を見せない。時計を見ていた斉さんは、『こんなことでは皆さんに誠意があると認めがたいから打ち合わせ会はやめにしよう』と言い出した。そして瀧野君以外の人とは話したくないと言って、ひっこんでしまった。一般のパン屋とは肌の合わない人だったという印象が強い」と瀧野は振り返っている。1932年(昭和7年)に「パンの一山売り」なる販売方法によって儲けを確保しようと、パン組合が申し合わせた際も、斉は断固反対し、あくまで1斤400 グラムの目方売りを励行する旨、次のような広告を新聞に出した。

「◎試みに京都製パン同業組合の名に於ける近刊大毎大朝附録の値上げ発表の形式に一瞥を与へよ、曰く

食パン 二山 十二銭也と

値上げは正当にして異議ある可らず
問題はこの山の妖性に懲りて存す

◎思へ、山には築山あり、円山あり、愛宕山あり、又芙蓉の山等のあるに非ずや
この何山たるを明示せざるは山の特性を掩ふものにして痛く市民の疑惑を惹くに足る者ならずんばあらず
敢て問ふ同業の子よ、諸子は何故に現代公通のメートル法に準拠して明々白々に所定の量目を公示し以て組合の信義と正大とを世に明らかにする義務を廻避せられたるや」

世界経済恐慌に直面して厳しい生活を強いられる京都市民のために、斉がこのような措置を採ったのは、人としてクリスチャンとして当然のことであった。

人々に愛された北白川店

原料の高騰でパン屋にとっては厳しい時代が続いたが、斉は理想とする店づくりへの苦労は厭わなかった。京都大学北門前に新しく北白川店を開いたのは1930年(昭和5年)、パン食堂「ノートル・パン・コティディアン」を併設したのが翌年のことであった。同店は、斉がパリの学生街カルチエ・ラタンで目にした、パンを食べながら教授と学生が語らう喫茶店を再現すべく建設したとされる。

建物の建築は増岡建築事務所が、当時新進気鋭の建築家・熊倉吉太良(建築工事人は父である熊倉順三郎となっている)と協力し設計を請け負っている。斉は当時まだ無名であった熊倉に芸術家としての才能を見出し、彼もまた斉の理想の店づくりに共感し快く協力を申し出たとされている。店舗建設にあたっては、斉も勉強して、タイルや木材の色目や材質に注文をつけたという。

こうして斉の思い描いた喫茶店は、若手作家の才能により見事具現化された。ハイカラな喫茶店の出現に、当時の京都の人々の驚きようは大変なものだった。木彫りのワーズワースの「虹」の大額が飾られた店内で、学生たちは十数人で囲むことのできる長テーブルで肩をよせ合い、本を読んだり製図をしたりと思い思いの時間を過ごした。やがて「京大第二教室」といった呼称が生まれたことは、斉の理想の喫茶店像が実現したことの証しであろう。

またこだわったのは内装や外観だけではない。美味しいパンを提供するため、多忙な本店経営の傍ら、続木夫妻も毎日交代で店に出向いて自らの手でパンを売った。

こうした甲斐あって北白川店は多くの学生、教授はもとより、戦後京大総長となった滝川幸辰など多くの著名人も足繁く通う憩いの場となった。

共産主義者として知られる河上肇も、進々堂のパンに魅せられた人の一人である。北白川店が開店する前々年に京都帝国大学教授を辞した河上は、共産主義運動に身を投じたために検挙、投獄された。そのため北白川の喫茶店に直接彼が足を運ぶことはなかったが、進々堂に対する思いを日記にこう書き綴っている。「小管獄中より一度口にしたしと思ひゐし進々堂のパン、学生少なきため今日初めてありつく。ひとやにて八年まへより聞きいたる進々堂のパンをけふ食む」。パリ滞在経験のある河上だけに、本場フランスパンの味を追求した進々堂に惹かれた理由も納得できる。

当時の形をそのまま残したこの北白川店はハナの没後長男・猟夫が相続し、現在は猟夫の孫である川口聡夫妻によって受け継がれている。

神とともに歩んだ人

サナトリウムからハナに宛てた手紙には朝食のイラストが。芸術への関心も高かった斉は、自分自身も絵を描いたり、デッサンを残したりしている。

サナトリウムからハナに宛てた手紙には朝食のイラストが。芸術への関心も高かった斉は、自分自身も絵を描いたり、デッサンを残したりしている。

フランス風の趣と、本場志向のパンが京都の人々に受け入れられ、順調な滑り出しを見せた北白川店であるが、この時期から斉の健康が損なわれ始めていた。まだ北白川店の構想を練っていた1929年(昭和4年)頃から、留学の折に船中で罹患したと思われる結核が進行していたのだ。スコットランド人のドクトル・マンローの診察を受けるために、斉は軽井沢のサナトリウムに検査入院する。

レントゲン撮影の後、差し当たって命に別条はないと診断された斉は、ハナ宛てに手紙を書いた。「それがほんとうであるかもしれない」「何にせよ小生はただ神意のままに在りて、平和な明るい喜びをもっております」

このときすでに、自分の死を予感していたとも読み取れる文面である。しかし、全ては神の意志であると信じていた斉は、退院後もパンの研究と喫茶店の開店に全身全霊を傾けた。

晩年の続木斉

検査入院から病床の人となるまでの5年の間、斉は子供たちと鳥取旅行にも出かけている。海では日焼けで真っ黒になるまで遊び、家族との時間を過ごした。結核が進行していくが、斉は家族を想い最後まで入院せず、医者の往診を受けた。食事を含め病気療養の専念は見送り、朝は子供と一緒にパンを食べた。

主治医であった林良材は、晩年の斉について次のように書いている。

「初めて御見看した日の光景は不思議にもハッキリ脳裏に刻み込まれているのです。第一パン屋の御主人とはどうしても思えませんでした。私と相前後して(大正14年)パリに居合わせながら一度も巡り合わせなかったことがわかり、パリの話に花を咲かせました。(......)私はその後いくたびか御見看いたしたが、病苦の訴えはさらになく、死に対する不安もまったくない。どこが悪いのかとも、いつ治るのかとも一向にお尋ねになりませんでした」

林でなくとも、最期が近づく中で神を信頼し平穏さを失わない斉の姿には、接する人の心を打つものがあった。

1934年(昭和9年)、東京で学んでいた子供たちが、斉の危篤の知らせを聞いて帰郷した。斉は彼らの帰りを喜び、体を起こして迎えようとしたがそれもままならないほどに体は衰弱していた。天井から吊るされた綱を掴んで起き上がり、しばらく座ったまま話をする。ハナが「休んでください」と言うとまた横になったという。

ハナと子供たち、斉を尊敬する同志社関係の知り合いが枕元に集う中、斉は最後に大きく息を吸うと、安らかに眠りについた。享年52歳。全てを神に託しきったような、穏やかな表情で親族と友人たちに看取られた。

出典

「パン造りを通して神と人とに奉仕する 進々堂百年史」

「パン造りを通して神と人とに奉仕する 進々堂百年史」
発行 株式会社進々堂
製作 京都造形芸術大学文芸表現学科
取材・執筆・構成 足立琴音、島田智将、浪花朱音
監修 新元良一、村松美智子
特別協力 京都造形芸術大学
刊行 2013年6月5日