ハナの物語

続木ハナ

夫・続木斉が亡くなったとき、ハナは48歳だった。8人の子供を抱える母親の身でありながら、毅然として経営の責任の全てを引き継いだ。経営者としては斉以上の手腕を発揮し、戦後の進々堂の向上発展に心血を注ぐ。

パン屋と家事とで多忙を極める傍ら、毎日読書を欠かすことはなく、読んだ書物の種類は多岐にわたる。病床に伏していた三女の続木彩子は、ハナに様々な本を勧められた思い出がある。白隠禅師『夜船閑話』や『遠羅天釜』を読んでみるよう言ったかと思えば、ヒルティの『眠られぬ夜のために』、正岡子規の本なども持ってきた日もあった。

中でも旧約聖書と内村鑑三の『一日一生』に目を通すのは日課だった。その様子をいつも眺めていた彩子は「母の信仰の遍歴を辿ってみると、父の斉とは違った複雑さを持っていたように思います。だからこそ彼女には人間としての深みと奥行と陰影があった」と述懐する。

ハナの周りには常に様々な人がいた。8人の子供たちの世話をしながら、斉亡き後、徒弟の職人たちをとりまとめ、教会や学生への援助もした。また宗派や形式に一切こだわりがなく、組合派、無教会派、長老派、バプティスト・聖公会など区別なく教会と関わった。一方で仏教の僧侶なども出入りしていたという。こうした幅広い交際は斉には見られないもので、彩子が語るところの「人間としての深みと奥行と陰影」が人々を惹きつけていたのである。

ハナ誕生、兄・久次郎(ひさじろう)の影響

舞や琴の才能に恵まれた少女だった。

文明開化により日本が新時代を迎えた後の1884年(明治17年)、銘酒「白雪」で名高い、京都市綾小路新町の造り酒屋の次女として、鹿田ハナはこの世に生をうけた。幼少期は顔立ちのいい愛嬌のある少女で、近所の人たちからは「おはなさん、おはなさん」と呼ばれて可愛がられた。舞や琴の稽古事に通っており、多くの弟子の中でも抜きんでていたらしく、それらを披露する場ではハナの卓越した才能が人一倍目を引いた。そんな彼女に、師匠もとびきり目をかけていたと言われる。

のびのびと育てられたハナは、当時の封建的な制度にとらわれない、自由な感性を持つ女性に成長した。彼女の人間形成に大きな影響を与えたのが、兄・久次郎の存在であった。

久次郎もまた幼少期から才能に恵まれ、小学生の頃にはすでに頭角を表していた。非凡な少年であった久次郎に担任の教師は進学を勧め、本人もそのことを強く希望した。ところが父親は「商人の子に学問は必要ない」という考えを一歩も譲らなかった。当時の父家長的な家族制度が大きな壁となり、進学への道は閉ざされてしまう。これに向上心あふれる久次郎が反発しないはずはなく、家業の手伝いをそっちのけで読書に没頭した。さいわい、鹿田家の長男が文政堂という古本屋に勤めていたこともあり、好きな本を自由に読むことができた。久次郎に手を焼いた両親は、息子のあまりの自由奔放さにとうとう折れ、進学を許可したのである。しかし、不幸にも兄2人が他界したため、三男の久次郎が酒屋の跡取りになるよう命じられる。学問で身を立てようとしていた久次郎はまたもや抵抗し、両親はやむを得ず養子を取って家業を継がせることにした。こうして久次郎は家族、親戚からも煙たがられる存在になった。

同じ頃、京都市内では活発なキリスト教の伝道活動が行われていた。実は久次郎が酒屋という職業に反抗心を持つようになったのは、キリスト教的思想との出合いが発端であった。伝道活動の先頭に立っていたのが救世軍で、当時のキリスト教による一種の社会改良団体として、廃娼・禁酒運動を盛んに行っていた。彼らの街頭演説に耳を傾けた久次郎は、キリスト教の信仰に強く惹かれ、自ずと酒屋という家業に疑惑と嫌悪を抱き始めた。後に自身もキリスト教に入信し、宗教活動に参加するべく上京することを決意する。

この活動的な久次郎とハナは、兄妹の中でも特に仲が良く、兄は何かにつけて妹の面倒を見、ハナにとってはかけがえのないよき相談相手であったようだ。

1893年(明治26年)頃、二人は四条教会の日曜学校の生徒として、晩年のハナとも交流している牧野虎次に師事した。伝道者としてシカゴ、ハワイ、土佐、京都の四条教会牧師を歴任後、同志社大学の教授となった牧野は、久次郎とハナについて次のように書き記している。

「鹿田兄妹は、私が明治26年に四条教会に招かれてきた時の日曜学校に在学中であった。その頃の四条教会の朝の礼拝は信者で満員。夕の伝道説教は求道者で立錐の余地もなかった。西田天香、出口王仁三郎、北村徳太郎、佐藤宣吉、山下義信氏などなど、のちに名をなした人々も来会せられた。鹿田兄妹もその仲間だったのである」

兄妹の絆は、15歳のハナのもとに突然の嫁入り話が持ち込まれたエピソードからも窺い知れる。

相手は名の知れた老舗呉服屋の御曹司で、結婚話が持ち上がったとき、両親や親戚は諸手を挙げて喜んだ。鹿田家にとっては身に余るほどの嫁ぎ先というわけで、誰一人として反対する者はなかった。当時の婚姻は家と家の結びつきであったため、相手方が老舗の息子となれば、鹿田家にとっては断る理由のない縁談であり、本人の意向が尊重されないこともさして珍しくはなかった。

しかしハナにしてみれば、15歳の若さで結婚する気は全くと言っていいほどない。家族皆が嫁入り話を進めていく中で、唯一親身になってハナに同情したのが兄の久次郎だった。彼は当人の意志をぞんざいに扱った結婚に異議を唱えたが、家業を捨てて学問に奔走した久次郎の言葉に耳を貸す者はなかった。

縁談はとんとん拍子に進められ、いよいよ嫁入りが近づいてきた日のこと、久次郎はハナを薄暗い酒蔵の片隅に呼んで、次のように諭したという。

「どうしても行きたくなかったら今のうちに家を出よ。後の始末は俺がつけてやる。両親の言う通り嫁入りする気ならばそれもよいが、いよいよと我慢ならないときは何時でも逃げ出してこい。人間に一番大事なことは自分に忠実に生きることだ」

仲の良い妹への愛情が伝わる言葉である。と同時に、久次郎の古い慣習にとらわれない人間観も窺い知れる。妹には、かつての自分が時代遅れな思想に進路を阻まれたときと、同じ苦痛を味わわせたくないという思いが働いていたのかもしれない。

一旦は両親や親戚の意向に従って嫁いでいったハナであったが、老舗呉服屋の封建的な家風にハナが溶け込むのは難しかった。兄の言葉に励まされ、不釣り合いな結婚に自身の一生を台無しにはできないと考えたハナは、1年にも満たない期間で実家に戻ってくる。

こうして久次郎に従ったハナは、持ち前の才能を発揮できる、のびのびとした教育への道に進むことになる。

女学生として同志社女学校、明治女学校に学ぶ

学生時代。左端がハナ。

里に戻ったハナだったが、結婚生活の崩壊を前向きに捉え、かねてから関心のあった勉学の道に進むことを希望し、両親の許しを得た。

念願が叶い、兄に勧められた同志社女学校に入学したのは1901年(明治34年)頃と推察される。結婚の経験もあり学友たちよりも2、3年年長だったため、立ち居振る舞いには落ち着きがあり、周囲から一目おかれていた。また入学早々にバイオリンを習い始めたというから、当時の女性としては型破りとまではいかなくとも、進取の気性に富んだ女性であったのが窺われる。キリスト教に入信したのも同志社時代のことで、後に牧野虎次のもとで日曜学校の教師を務めたりもした。

ハナの同窓であった広川千鶴は、当時を次のように振り返っている。

「おハナさんはいつもクラスの指導者格でした。M・F・デントン先生の厳しい教育を受けておりましたので、よく先生からお叱言をちょうだいする生徒がありましたが、鹿田さんはその度ごとに起立して生徒のために謝ってくださいました」

M・F・デントンは、日本の女子教育にその生涯を捧げる決意を固め、はるばるアメリカから同志社にやってきた婦人宣教師だ。専門は英文学、英会話、英習字であったが、欠員があれば、動物学、植物学、天文学、心理学をはじめとする様々な授業を担当した。ハナも彼女の幅広い教育を受けた女学生の一人である。広川が証言しているように、デントンは生徒たちに厳しい教育を施し、こよなく同志社女学校を愛した。「世界で一番善い国は日本である。日本で一番善い所は京都である。京都で一番善い学校は同志社である。同志社で一番善い学部は女子部である」という表現は、彼女の偽らざる実感であり信念だった。

ハナはデントンの教育を通じて、女性としての基盤を確立し、幅広い知識を得た。後年、同志社女学校同窓会の幹事となったハナは、デントンを中心にグループをつくり、生活文化の向上のための社会事業の推進に尽くしている。

ハナは、学課では英語を得意としていたと思われる。四男の続木満那は、後年のハナが「市電に乗った時たまたま隣席に居合わせた西洋の婦人と、かなり流暢な英会話を交わした」と、社内報で紹介している。

その頃中学校を卒業していた兄の久次郎は、すでに家を出て上京し、キリスト教の伝道活動に力を注いでいた。新宿中村屋で職を得て暮らす傍ら、内村鑑三の門下生として、彼の聖書講義に足繁く通った。久次郎について満那は、「様々の話を綜合すると久次郎と云う人は、古きよき明治の御代が生んだ典型的な浪漫派の理想主義者であったらしい」と言及している。

久次郎が斉と出会ったのもこの頃である。同じくロマンチックな詩や文学を好み、キリスト教に帰依した相似点も手伝って、二人が意気投合するには時間がかからなかった。こうして詩と宗教について語り合う友として二人は共同生活を始めた。

しばらくして、結婚を機に斉が新生活のために居を移したため、独居生活を不便に感じた久次郎は、妹を京都から呼び寄せ身の回りの世話をさせることを思いついた。彼は在学中のハナの転校先として明治女学校を訪ね、妹の途中編入を依頼し、その足で帰洛して両親を説得した。この知らせに、かねてから上京する願望のあった21歳のハナは、ここでも兄の熱心な勧めに従って明治女学校への転校を決めた。

当時の明治女学校は、外資に依存しない唯一のキリスト教主義学校として知られていた。久次郎はこの点に好感を持ち、ハナに推したと思われる。同校の卒業生には、後にハナを支援してくれる新宿中村屋の女主人・相馬黒光や、自由学園を創立した羽仁もと子なども含まれていた。この学校でハナがどのような教育を受けたかについては不明な点が多いが、『日本のパン四百年史』には次のような記述が残っている。

「女学校には島崎藤村、北村透谷など、当時の進歩的なクリスチャンが教鞭をとっており、キリスト教学校として文明開化の先端を行く教育を行っていた(......)。

この学校は洋式教育をやっていたので寄宿生にはパン給食が行われた。彼女(ハナ)がパンという文明開化の食物に興味をもつようになったのも、この給食のおかげであるが、パンは学校の建物の一部を利用して焼かれていた」

明治女学校でクリスチャンの女性として感性を磨いた他、この学生時代にハナは洋食への関心を芽生えさせたようである。

続木斉との結婚

女学生として学問に励んでいたハナは、ここで後に夫となる続木斉と出会うことになる。すでに軍地ウラと結婚し、2児をもうけていた斉であったが、彼の自由奔放さが災いし離婚の憂き目にあった。幼子2人を抱える境遇を見かねた久次郎は、親子を引き取ることを決意する。こうして階下には鹿田兄妹が、二階には続木親子が同居する生活が始まった。時間に余裕のあったハナは、いわば成りゆきに従い斉の連れ子の面倒を見る運びとなった。これを機に二人は気心の知れる仲となり、1908年(明治41年)の春に正式に結婚した。斉27歳、ハナ24歳であった。二人の結婚についてハナの長姉にあたる鹿田千賀は、次のような話をしていたという。

「私もたいがいきつい女子やと人様に言われるけど、おハナは私どころやないえ。なんせ斉さんを無理矢理離婚させて、二人の子供ごと引きとってしもたんやさかいな。気の弱い斉さんは前の奥さんにも未だ執念があったんやけど、おハナの強気に引きまわされた恰好や」

一方息子である満那が、母から直接聞いた話は全くの反対で、ハナ自身は 「虚栄心の強い先妻に見限られ、2児を抱えて困惑している父(斉)を気の毒な人、しかし類い希れなよい人と思って......」と話していたという。

こういった異なるハナの人物像について満那は、「千賀さんの言葉の大半がたとえ真実に反していたとしても、ハナの性格の中には第三者にこんな誤解を懐かせるような一途なもの、傍若無人なものがあったことを私は否定できない」としている。

ハナの印象について、元・京都聖マリヤ教会牧師の法用繁造は、「非常に強い方で自分の信じたことは遠慮なく主張されました。その主張をのべられる時の顔付、目付――これは何人の方が知っておられるかわかりませんが――その気魄は前に座っていても恐ろしい位に感じたことが二、三度ありました」と記しており、ここからもハナの強い個性の一面が見えてくる。

ハナの家計日誌。パン造りのための材料から、子供たちの衣類、献立の食材など細々と書き記されている。

さて、再婚した続木夫妻は男児を授かり、猟夫と名づけた。二人はこの子供を伴って東京生活を打ち切り、衣食住を安定させるのを目的に帰洛することを決意した。斉と先妻の間にできた二児はすでに病気でこの世を去っていたため、京都への道のりは親子三人連れであった。

帰洛した親子3人が京都のどのあたりに住居を構えたのか、正確な場所を知るすべはない。しかし、三女の彩子は「あるとき母と一緒に新烏丸、丸太町を下ったあたりを通りかかると、西側のこぢんまりした仕舞屋を指して、母は昔この家にしばらく住んでいたことがあると言った」と述懐している。パン屋を営む以前の夫妻は、斉が出版物を扱う編集室に働き口を見つけ、ハナが縫い仕事をして生計を立てていた。それでも、一日分の米を買うのがやっとの暮らしであったという。

ハナは当時のことを彩子に語って聞かせたことがある。

「明日のお米を買うために徹夜で縫い上げた着物を届けに行くと、先様がお留守でがっかりして帰った日もあった。でも賃代を受け取り、真っ先にお米と父(斉)のための煙草を買えたときなどは本当にありがたかった」

ハナはその頃女学校の教職にも就いた。母の教師時代の話を初めて耳にした彩子が、「お母さんはそこで何を教えていたの」と尋ねると、「数学と英語」とハナは笑って答えた。忙しい母親からこのような話を聞くことが滅多になかった彩子は、両親の若い頃の暮らしに思いを馳せ、心を打たれたという。

こうした夫妻の努力にもかかわらず、日々の稼ぎもままならぬ貧しい暮らしが続いていた。そこに転機が訪れる。ハナの兄・久次郎が、開業していたパン屋を手放すことになったのだ。社会主義運動に専念した、あるいは体調を崩したなど、久次郎が商いから身を引いた理由は諸説ある。いずれにせよ、その後も四方に活動の手を伸ばしていたことを考えると、彼にとっては手に余る店だったのだろう。

こうして久次郎から店を継承し、続木夫妻が進々堂を開店させたのは1913年(大正2年)のことであった。最初の吉田の店舗が火事により焼失するなどの不幸はあったものの、移転した先では運にも恵まれ、進々堂の経営は軌道に乗り始めた。店を訪れる客は次第に増えていき、京都の人々の多くが、進々堂というパン屋の名前を知るところとなった。

進々堂を切り盛りする女主人

1924年(大正13年)、斉がフランスへ留学に旅立ったため、ハナは夫が不在の間の経営を女手一つで引き受けた。子育てに加え、実質的な店の経営トップとして舵取りを行うハナの苦心は、並大抵のものではなかったと思われる。

実際に、ハナは難題に直面する。従業員たちが法外な賃金引き上げを要求し、ストライキを構えたのである。主人の不在もあり、店を切り盛りする女主人を見くびってのことでもあった。だが当のハナは少しも臆することなく、「しばらく考えさせてもらいましょう」と時間の猶予を求めた。次に子供たちを知り合いのもとに預け、自身は新宿中村屋の相馬黒光の助言を求めて単身で上京した。

ハナと黒光の親交については多くは語られていないが、明治女学校の同窓であり、斉と相馬愛蔵夫妻が内村鑑三門下生でクリスチャン、それぞれにパン屋を営んでいたことから接点があったと思われる。訪ねてきたハナに対しての黒光の返答は、「相手が女と見くびって不埒な謀策を弄するような輩は放り出しておしまいなさい。うちの忠実な働き者を譲りましょう」と、進々堂の従業員の替わりとなる働き手を紹介したのである。

黒光に勇気をもらったハナは、さっそく中村屋の従業員を引き連れ帰洛し、京都に待機させた。まずは従業員らと交渉の場を設け、新たな労働条件を提示したが、対する従業員側はこれを拒否。そこでハナは全員の解雇を言い渡し、中村屋の従業員を迎え入れ営業を再開したのである。開店休業の苦境に追い込んだつもりのスト組は、いつもと変わらない店の様子に泡を食った。慌てて要求を取り下げ申し出に従おうとしたが、ハナはこれを一蹴し、解雇手当を奮発して辞職させたという。

夫の留学中、ハナには相当の苦労があったはずだが、斉には事の一切を伝えなかった。帰国した斉は、以前とほとんど変わりなく続いている店と、愛する家族の元気な姿にさぞ安心しただろう。

夫は経営を妻に任せ向上心を胸に遊学し、妻は妻で、厳しい労使交渉をたった一人で切り抜け、帰国後の夫に愚痴を告げるわけでもない。強い信頼関係の絆で結ばれていた続木夫妻であった。

1926年(大正15年)に斉が帰国すると、二人は再び二人三脚で経営を始め、フランス風のパンを売る店として京都の人に喜ばれた。進々堂の隣にあった理髪店・美留軒の主人は「おハナさんは、商売に巧みなたいへんやり手で、なかなかの美人でもあった。愛想のよかった印象は、今も頭にこびりついている」と回顧している。おそらくパンの研究開発を担ったのが斉、巧みに店を切り盛りしていたのがハナであったのだろう。

しかし、店が繁盛していく喜びもつかの間であった。帰国してわずか8年、渡航中に罹患した結核が進行し、斉は帰らぬ人となった。これにより進々堂の存亡は、女主人であるハナに委ねられた。

ベルナー・フライデレル社のオーブン。購入を検討していた斉の意思を受け継ぎ、職人を呼び寄せて設置した。

当時の様子を、斉の主治医であった林良材は次のように語っている。

「ハナ女は世の常に見られるような落胆の淵に沈淪することはなく、凛然として立上った。8人もの子女を擁した女の身で、あの大舞台を切り廻し得ようかと、ひそかにお案じ申しあげた私でした。然るに現実には、この困難至極な二方面とも完全に仕上げられたのでした」

経営の全責任を背負うことになったハナは、斉以上の商才を開花させる。手始めに夫の理想としたパンを焼くために、製パン機械製造で有名なドイツのベルナー・フライデレル社にパイプ式オーブンを発注した。このパン焼き窯の導入はおそらく日本初と思われ、『パンの明治百年史』には「京都のパン業界に革命的気運をもたらす劃期的な試み」と記述されている。結果として進々堂は生産の合理化に成功し、主力商品である食パンや、フランスパンなどの売れ行きは倍増し、やがて京都のパン業界を代表する存在となった。

店が繁盛するにつれ、ハナの仕事への負担は増した。女主人として多忙を極める母親の様子を、彩子は次のように語っている。

「冬は母の就寝のとき、寝間着の上から薄綿入りの丹前を着込んで床についた。私が『そんなに厚着をして寝ると窮屈で肩が凝るから寝巻だけにしたらよい』と言うと母は、もう長年やってきて慣れているから何とも思わない。夜半に急なことがあると職人が工場から呼びに来るから、これを着ていないと風邪を引くのだと答えた。事実、夜も更けて深い眠りに入っている頃に、いろいろな用事で母が呼び出されるのがほとんど毎夜のことであった。寝間の窓から『奥さん!』と一声かけられると、どんな小さな声であろうと母は『はっ』と直ちに応じて、二度と呼ばせることはなかった。同時にすっと床を離れると、足袋をはいて寒い室外へ出て行く。しばらくして用を済ませて戻り、床に就くや、すーすーとまた眠るのである」

用事を片付けようと寝床から離れる母の姿は、武士が就寝中に変事があれば、枕頭に備えた刀を取って飛び起きるかのようであったという。ハナは誰よりも一番遅くに床に就いたが、彩子が起きる頃には隣の布団はいつも空で、すでに身仕舞いを整え、窓辺の小机の前に端座して書見をしていた。それは実に静寂な姿であったと、彩子は振り返っている。

「朝から晩まで人、人、人。人と仕事に追われている母が、たった一人になって神と我とに対面するのは、この時の他になかった。夜が白々と明ける頃、町はまだひっそりと静まり返り、冷え冷えとした朝の空気の流れ入るこの時間が、母の力の源であったと信ずる。私は母を妨げないように、そっとしていた。人が起き始める頃、母は書物を閉じ、質素な上っ張りを身につけて店へ出て行く」

こうして商家の女主人の一日が始まるのであった。

人々の幸福を願うハナの商売法

母・ハナと旅行先にて。

仕事に追われるハナの生活であったが、パンを焼くことに関して手を抜いたことは一度たりとてない。

戦後パン業界の関心事は食料営団や電力会社のお偉方にへつらって、せいぜい多くの小麦粉や電力の配給を仰ぐことにあった。また、パンを高く売るためにパン生地にはできるだけ多量の水を吸わせ、焼きを浅くして目方を増やすことで利益を出そうとする同業者が数ある中、ハナは権威にこびへつらうことをせず、また火通りの悪い「水パン」を造ることも決して許さなかったので、当時の進々堂の経営は決して楽とは言えなかった。

美味しいパンの条件は何かと尋ねると、ハナは「十分に焼くことです」と答えたという。しっかり発酵させた生地を、正しい温度で時間をかけて中心部まで火を通す。ハナの心遣いが込められたパンは、消化によく健康的で、なおかつ他店を凌ぐ味を保っていた。

1943年(昭和18年)の進々堂社員。2列目右から4人目がハナ。その左後ろは息子の猟夫。

ハナが進々堂の女主人を引き受けてから3年が過ぎ、日中戦争が始まった。5年目に入り、1939年(昭和14年)には第二次世界大戦が勃発する。1943年(昭和18年)6月1日、政府は「戦力増強企業整備基本要綱」を発表。これにより進々堂にも企業整備会の手が入り、他の2社と統合される運びとなる。新たに「京都中京製パン有限会社」が設立され、ハナは社長に就任する。ハナが社長の職に就いたのは、彼女が京都のパン業界でも際だって優れた経営者だったからに他ならない。しかし従来の経営は叶わず、彼女にとって唯一の慰めは、進々堂のパン工場がそのまま会社に引き継がれ、取り壊しを免れたことだった。

食糧事情の悪化と、企業統制による社業の停滞により、思わぬ余暇を得たハナは平安朱生流家元の柳本重甫に師事し、週1回茶や生け花の稽古事に通った。斉亡き後、働き詰めであったハナにとって、この余暇は楽しみの一つであり、心の拠りどころにもしていたという。

彼女が亡くなる直前まで指導をしていた柳本によると、ハナは終始ユーモアを持って人々と接し、戦争の深刻化に不安の漂う世にいながら、いつも明るい雰囲気がみなぎっていたという。生け花の稽古がなかなか思い通りにならない日は、「なぜ先生がやると花は言うことを聞くのだろう。私にパンを切らせてみなさい」と笑うこともあった。事実、ハナのパン屋における仕事ぶりは、卓越した技術と見識を感じさせたと柳本は評す。また戦中は柳本の家族を疎開先まで訪ねて行き、彼らを励ましたという。

敗戦の色が濃くなるにつれ、人々は食糧不足に悩まされ、生活は困窮した。この状況下、パン屋の経営がどのようなものであったか、定かでない部分が多い。しかし、幸い戦時下の京都が大きな爆撃を受けることはなかったため、進々堂の設備は被害を免れた。元・第三高等学校教授の栗原基は、次のような体験を回想している。

「人びとは朝から、所在のあやしげな食堂の前に立ち、鍋を手にしながら、長蛇の列に加わり、配給の順番を待つのでした。やっと渡されたものは、水気たっぷりの雑炊のお粥でした。トウモロコシの配給に、腹痛や下痢に泣く子供も多くなり、母親たちの憂色は目にあまるものがありました。こんな折も折、何にもかえがたい香り高い焼きたての食パンを、わたしどもに下さったのは誰でしたろう。健気なミス・デントンはこのパンを涙とともに押し頂いたそうです」

戦時下でも気丈さを失わず、ハナは限られたメリケン粉で、教育に携わる知己のためにパンを焼いていた。

長く苦しかった戦争は、1945年(昭和20年)に終結を迎えた。政府の企業統制は次第に緩和され、それに伴い企業合同を解消したハナは、翌年、進々堂を資本金19万5千円の株式会社として再出発させた。やがてパンの自由販売が可能になり、個々の企業の創意工夫が活かされる時代が到来した。

企業統制以降、ハナは進々堂の経営をほぼ息子たちに任せていた。戦後の洋菓子販売や、デイリーブレッドの発売などは、猟夫や満那の手によって開発され、進々堂を今まで以上に繁盛させることになった。戦中戦後の混乱を切りぬけたハナの苦労は、一通りのものではなかったはずだが、自身の苦悩については一言も口に出さず、仕事に取り組んだ。ハナはすでに69歳になっていた。

京都の人々に愛された続木ハナ

晩年のハナは福祉事業、伝道事業などにも密かに援助の手を伸ばしていたという。老人ホームの設立を夢見ていたが、肉体的な不安もあって実現には至らなかった。

しかし彼女の信仰と、誠実さ、愛情深さの恩恵に預かった人々が多くいたのは、彼らの証言からも明らかである。商売の一線から身を引いた後も、ハナは珍しいものがあると知り合いのもとに届けて歩いた。クリスマスの朝には、戸口の木の枝にサンタの贈り物をかかげて子供たちを喜ばせた、思いやりのある老婦人だった。

病気で床に伏したハナの世話をしたのは徳平冬子という、気丈夫な看護士だった。ハナは「こんな頼もしい人が来てくれ、毎日よく世話をしてくれるのは本当にありがたい。何もかも、もうすっかり安心して任せています」と言い、冬子の太い腕をさすったという。

冬子は「私もこの齢まで幾人も重病人の看護をしてきたけれど、奥さんは本当にえらい方です。一生懸命できるだけのことをしてさしあげたいという気になるのです。一日中ひっきりなしに見える見舞の人全員に会われて、細かい心遣いをひとりひとりに示され、特別激しい痛みのない限りは、少々の苦痛は見せずに快く話をされました。夜はすっかり疲れられるので、おそばで体でもさすりましょうと申し上げますと、『私も一人で静かに居たい。大勢の人が来られてあなたも疲れただろうから、早くおやすみ』とおっしゃるので、私は枕元に聖書を置き、スタンドの灯をともして隣室へ下るのでした」と当時を語っている。

体が弱り、寝たきりの状態になっても人びとへの気遣いと祈りを忘れなかったハナ。斉同様、死を恐れる様子などはなかったという。

1955年(昭和30年)、ハナがこの世を去った。70年の生涯で、42年間をパン屋の商売に捧げた。商売人、クリスチャンとして誇り高き人生を全うした。

1933年(昭和8年)の続木一家。左から次男・巧(たくみ)、三男・能(あたお)、長男・猟夫(さつお)、父・斉、五男・路南(るな)、母・ハナ、四男・満那、次女・雛子、三女・彩子、長女・皐月(さつき)。当時、満那は10歳。

出典

「パン造りを通して神と人とに奉仕する 進々堂百年史」

「パン造りを通して神と人とに奉仕する 進々堂百年史」
発行 株式会社進々堂
製作 京都造形芸術大学文芸表現学科(現・京都芸術大学)
取材・執筆・構成 足立琴音、島田智将、浪花朱音
監修 新元良一、村松美智子
特別協力 京都芸術大学
刊行 2013年6月5日